国旗と国歌①

国旗と国歌①

(有)イーエルエル 代表取締役 丸井 洋 氏(金沢西RC会員)

 国旗の起源について最初は軍の師団の所在と部隊の精神的執拗を示す軍旗が始まりである。古くは古代ローマ軍団の軍旗、日本では戦国時代の旗指物などである。所属国家を表す旗としては船舶の所属を示すものとして商船旗が17世紀に作られた。国民の国家意識の高まりとしては18世紀の終わり頃、一番早いのは1777年アメリカ合衆国の星条旗が始まり。フランスは1794年、イギリスは1801年、その他も19世紀中頃です。日本では1870年(明治3年1月)に商船旗として制定国旗掲揚において国際儀礼は他国旗であろうと起立、直立不動で注目することが儀礼である。国際的には文民の場合は脱帽、軍人は脱帽せず敬礼、国によっては右手を胸に当てる、有帽の場合は脱帽して胸に当てる。日本においては起立脱帽して国旗に注目するのが普通である。国章とは国家を表す紋章ですが日本には無いが皇室の菊の御紋章を準じて扱うことにしている。政府の紋章には桐花紋が用いられパスポートの裏に刻まれている。ところで国旗や国章に侮辱罪があるかと言えば外国旗には刑法92条で定められているが日本国旗には無い。
 日章旗について古代から中世は日本人の古代信仰として農耕、漁労に置いては太陽を信仰の対象としてきた。皇祖神・天照大神は太陽神であり弥生時代から古墳時代(大和時代)にかけて祭器として使われた内行花文鏡の模様は太陽の輝きをかたどったものと言われ、三種の神器の一つ八咫鏡をこの鏡とする説もある。聖徳太子が中国へ、「日出處天子…」で始まる国書を送っている。また、飛鳥時代末期に国号を「日本」(日ノ本)と命名したところからも、太陽(日の出)を意識しており、「日が昇る」という現象を重視していたことが窺える。797年の『続日本紀』の中にある文武天皇の701年(大宝元年)の朝賀の儀に関する記述において、「日像」の旗を掲げたとあり、これが日の丸の原型で最も古いものといわれているが、白地に赤丸ではなかったと見られている。
 近世から近代では江戸期には、「白地に赤丸」は意匠のひとつとして普及していた。徳川幕府は公用旗として使用し、家康ゆかりの熱海の湯を江戸城まで運ばせる際に日の丸を立てて運ぶなどした。船団中央には、日本丸を改造し改名した大龍丸などが描かれており日の丸の幟を立てている。1673年に御城米を輸送する御城米廻船を区別するために「城米回漕令条」を発布した際、その中で「御城米船印之儀、布にてなりとも、木綿にてなりとも、白四半に大なる朱の丸を付け、其脇に面々苗字名是を書き付け、出船より江戸着まで立て置き候様、之を申付けらる可く候」と、御城米廻船の船印として「朱の丸」の幟を掲揚するように指示し、幕末まで続いた。1854年3月の日米和親条約調印後、外国船と区別するための標識が必要となり、日本国共通の船舶旗(「日本惣船印」)を制定する必要が生じ、日の丸を当てることが同7月9日、老中阿部正弘により布告された。1859年幕府は縦長の幟から横長の旗に代えて日章旗を「御国総標」にするという触れ書きを出した。日章旗が事実上「国旗」としての地位を確立した。1860年、日米修好通商条約の批准書交換のため、外国奉行新見豊前守正興を正使とする幕府使節団がアメリカ合衆国に派遣され、アメリカ軍艦ポーハタン号と日章旗を掲げた咸臨丸に分乗して太平洋を横断した。これが国旗として日本国外で初めて掲げられた日章旗とされる。1945年、連合国軍総司令部(GHQ)の指令により日章旗の掲揚が原則禁止された。祝日に限定した特例としての日章旗掲揚許可を経て、1949年日本の国旗の使用を自由とする旨の声明を発表。
 国歌とは讃歌でありその国を象徴する歌のこと。君が代は国歌の原歌が『古今和歌集』の賀歌であるため、そもそも「我が君」の「君」とは天皇なのかどうかということがしばしば問題にされる。『古今和歌集』収録の歌としてごく一般的な「君」の解釈を述べるならば「君は広くもちいる言葉であって天皇をさすとは限らない」ということである。これはあくまでも『古今和歌集』賀歌として収録されたこの歌への考察であり、『和漢朗詠集』になってくると朗詠は詠唱するものでありどういう場で詠唱されたかという場の問題が大きく出てくる。