算用状の語るもの

算用状の語るもの

元高校教諭 中道 大通 氏(第37回泉鏡花記念金沢市民文学賞受賞)

農民・百姓たちが書き残した歴史史料は殆どなく、荘園領主等の支配者側の記した史料しかありません。農民・百姓がどのような状況に置かれていたかは、支配者側の史料から透かして見るしかありません。算用状も支配者側の記したものですが、年 貢取立ての台帳ですからその数値は正確ですし、そこに記されたコメントを分析することによって、農民・百姓たちの実状がどうであったかが鮮明に浮かび上がってきます。
金石の大野庄に、京都臨川寺所領の荘園がありましたが、その算用状を見ると当時のいろんなことがわかります。1つは、過酷な年貢負担があったことです。1367~1452年頃に、災害か何かで歎きを申し出て年貢を「除」つまり軽減してもらっています。申し出る方法は名主(みょうしゅ)という有力な百姓から地侍になったような人に、起請文を書いてもらいます。彼らは農民側の指導者ですが、ふだんは荘園側に協力する下級荘官でもあります。交渉は荘園領主の代官である上級荘官との間で行います。
「請加」とありますが、軽減した分を復活するとか新田開発により追加の年貢を取ることです。斗代というのは一反当りの年貢のことで、これに面積をかけたものが分米という年貢になりますが、調べてみると実際は、計算で出た年貢よりも2.2倍程度多く徴収しています。当時は、標準の1升枡に対し、徴収するときの収納枡は12合枡、売るときは下向枡といって6合枡を使っていました。収穫の7~8割が年貢で取られていたわけです。
1460~61年には寛正の大飢饉が起こって、嘆き申し出により、256石もの軽減をしています。1471年には蓮如が福井の吉崎に来ました。74年に富樫政親が真宗高田派と組んだ弟の幸千代と家督争いをしましたが、本願寺派の蓮如が政親を支援し政親が勝利しました。この乱時に年貢は589石免除されています。蓮如は支援による保護を期待していましたが、政親は本願寺門徒の勢いに不安を感じて75年から門徒の弾圧を開始しました。この乱後の82年には不作などにより徴収予定の1605石に対し、免除により661石しか徴収できていません。88年(長享2年)に、長享の乱いわゆる加賀の一向一揆が起こり、政親は高尾城にて攻められ自害しました。
蓮如の十男の実悟の語録の中に「百姓等の持ちたるやうな国」とあり、農民だけが支配していたわけではなく、本願寺から派遣された坊主衆や有力国人衆も支配する社会だったようです。いずれにしても、1474年から鳥越城落城の1582年までの108年間は、一向宗門徒や百姓等が力を持っていた時代でした。
なお、詳しくは本年10月、第37回泉鏡花記念金沢市民文化賞を受賞した『中世加賀「希有事也」の風景』(能登印刷出版部)をご覧ください。