私の経験

私の経験

㈱日本旅行西日本営業本部 北陸営業部長 大久保 範繁 氏(金沢西RC会員)

 出身は能登の七尾市、旧鹿島郡中島町塩津で1958年5月28日に生まれ当年57歳です。小さい頃から相撲に明け暮れ、父も草相撲最高位の大関でした。中島中学には相撲部がなく柔道部に入りました。当時163cm、54kgくらいでしたが、中学時代は講道館の全国大会に出場しました。
 高校は舛田山先輩・現千賀ノ浦親方も出ている伝統ある七尾商業に入学、相撲部に入りました。ここからが、私が経験した試練というか、今日ここに居られる理由なのかなと思います。遠藤とかプロのお相撲さんは艶やかで華やかに感じられると思いますが、ほんの一握りであって、そこまでは大変な試練があります。七尾商業相撲部は3年生2名、2年生2名、入学当時は私含め4名の当初8名で登録されていました。入部当初は、基礎体力・忍耐力を試す目的で城山の山道を走らされました。同期の1人は1週間で辞めました。1年生は晴れた日に昼休みに先輩のまわしを干すことが仕事で、授業中も干せるか天気を気にしていました。
 5月は能登、加賀地区大会の後、最終の日曜には全国高等学校相撲金沢大会があります。七尾商業は全国の出場校75~78校の中で優秀32校から落ちたことがなく、大会までは凄い稽古の毎日でした。足の親指の皮がむけ、真っ赤になりましたが怪我した時は塩を塗っていました。ただ、稽古中は全く痛みを感じませんでした。稽古中盤には三番稽古があり、これが一番酷く長い時は二人で1時間以上続きました。稽古中は肘が上がっているとか、脇を締めろとか言われますが、全く聞こえないので先輩から竹刀や竹ぼうきでたたかれるなど辛い練習が続きました。涙も出なくなります。今何があっても乗り越えられるのは、その辛い練習に耐えてきたからこそ、と思います。
 昭和52年に卒業し、日本国有鉄道に入社、南福井駅の構内係に配属されました。最初は準職員として南福井の駅では、貨車のブレーキ取りをして仕分け線に分ける仕事です。一日中、一編成57両のブレーキ取りをバンバン、バンバン危険を感じながら必死でやりました。当時は大久保ではなく、「能登」と呼ばれ、先輩には「貨車と喋れるようになれ」と言われました。苦労の末、10月には晴れて職員になれました。
 2001年10月1日、日本旅行に転籍しましたが、JR西日本のとき和倉温泉や加賀温泉の方々等からのご支援で、仕入れセンタ-の所長まで仕上げていただいたこともあります。
もう一つは、耳のことです。相撲や格闘技を一生懸命やりましたが、耳だけは潰さず最後まで守って卒業しました。
 北陸から首都圏に北陸新幹線を使って旅行される方は4-9月の昨年対比で222%と大変好調です。これから益々販売を伸ばしていきたいと思っています。店舗は金沢駅の中央にありますので、是非ご用命ください。