石川ものづくり産業史

石川ものづくり産業史

澁谷工業(株)取締役副会長 澁谷 進 氏

 3月5日に金沢商工会議所が開いた経済講演会で、講師の千葉商科大学の島田晴雄学長は「日本経済は衰退期に入った」と話していた。昨日の新聞によると、金沢経済同友会が「ものづくりの歴史を見直そう」と提言している。我が意を得たりと思い、テーマを変えて「ものづくり」について日ごろ思っていることを話したい。
この写真(KS式燃焼炉)は澁谷工業が、創業の昭和6年から29年ごろまで一番稼いだ商品。酒屋が石炭を焚いて米を蒸す釜である。その中で儲け頭が「ロストル」(火格子)という鋳物の部品。戦前戦後の澁谷工業はこれで成り立ってきた。
創業者の澁谷庚子智は文学青年で、兵庫県立豊岡中学で同級生の今東光と文士になろうと誓った。しかし胸を患い、大阪で始めた商売が酒屋さん相手の釜をつくる仕事。金沢に移ったのは、織機の産地であり鋳物の良い物ができると思ったからだろう。
前田利家により、穴水町中居の鋳物師・宮崎寒雉の技術が金沢へ来ている。穴水は海に近く塩田があり、釜や鐘をつくる技術があった。能登中居鋳物館という立派な資料館があり、2月27日に何人かを誘って行ってきた。鋳物技術は関西から穴水、高岡に入り、現在の石川の産業を支えた技術の一つであることを、あらめて知った。
澁谷工業の創業者は、大阪で覚えた醸造用機器の製造販売をもって金沢へ出てきたが、昭和30年ごろには「この業種だけでは先がない」と機械屋に転換し、お得意様の酒を瓶に詰めたり洗浄する機械の製造販売を始めた。営業では「今までの商品を売ってきてもセールスの成績にしない」という厳しい方針を出したようだ。三菱を頂点とする業界の最後尾でスタートしたが、昭和50年代の半ばにはその分野の売り上げトップに立てた。
さらに、現在の社長、会長は「このままでは行き詰まる」とレーザーに着目。鉄板の切断や水虫の治療、外科用のメスにも使い、これに端を発して半導体、医療の新事業を展開している。澁谷工業は今日現在も新規事業分野を一生懸命走っている。
中居の鋳物に話を戻すと、加賀藩は塩田で1万石を稼いでいた。海水を濃縮して塩をつくる塩釜は重要な技術で産業だった。だが、中居の鋳物は江戸末期ごろから廃れてきた。高岡に技術革新で負けたのである。高岡がつくる薄くて熱伝導率の良い釜に太刀打ちできなかったのだ。残念ながら穴水の人たちにもそういう歴史は伝わっていないようだ。
「歴史を伝えることを忘れた国民は100年以内に必ず滅びる」とアーノルド・トインビーは言った。それは過去の歴史の事実として述べたそうだ。個人の歴史、会社の歴史、土地の歴史は意識して伝えなければと痛感した。