“忘却の豪傑・横山隆興”~尾小屋鉱山の残照~

"忘却の豪傑・横山隆興"~尾小屋鉱山の残照~

辻興産(株)・辻商事(株) 取締役会長 辻 卓 氏

 金沢は地方都市のどこよりも県外ナンバーの車が多い。その理由は金沢に魅力があるからです。金沢の住人は加賀百万石のおかげといいますが、答えはノーです。何に起因するか。尾小屋銅山、それを経営した横山一族にあると断言できます。
尾小屋銅山の期間は51年間と想像以上に長い。1882年(明治15年)に横山家が銅山経営に着手。社主は本家の横山隆平。スポンサーとして金を出す。鉱山長の横山隆興は分家です。
豪傑というのは隆興さんのこと。この人物像は本当に豪放というか、やることのスケールがすごく大きい。これに比肩する豪快な人物は銭屋五兵衛くらいです。銭五記念館は建っているが、横山隆興さんのほうが何百倍、何千倍も大きいことを考えると、記念館くらい出来ていいと思います。歴代藩主、奥方、家老の墓がある野田山全山の中で、一番豪華なのが隆興さんの墓です。100年たっても石柱が崩れていません。
最初の10年は苦節の10年でしたが、新鉱脈を発見、日清、日露、第1次世界大戦が勃発、銅の価格はうなぎのぼり。それに加えて産出額が増えたから想像を絶する黄金期となり、「金沢は横山でもつ」といわれたほどです。
大正2年、当時の新聞社の機関誌にいろはかるたが掲載されており、「え」の欄に横山さんが出てきます。「えらいもの 本願寺さんと横山さん」とあります。当時の本願寺の勢いはものすごいもので、それに肩を並べています。
横山芸者という言葉もありました。あの子もようやく横山芸者になったというふうに使います。芸にしろ、マナーにしろ、すべての面で一流以上にならないと自分に関連する宴席に呼ばれなかった。美意識です。それが今日の工芸も含めて食の面であるとか、衣やとくに住宅のレベルを高く維持した原動力になりました。
石川県のGDPの3分の1を占める企業はコマツです。なぜ小松に立地したのか。地元資本が尾小屋銅山を成功させたのに対し、吉田茂の実兄である旧土佐藩士族の竹内明太郎が遊泉寺銅山の経営に乗り出した。薩長藩閥、明治政府の外資が進出してきたわけです。銅山経営はうまくいかなかったが、その中につくった小松鉄工所という鉱山機械を修理する会社が今日のコマツになりました。間接的ですが、尾小屋銅山の隆盛がなかったら今日のコマツも石川県になかったでしょう。そのことだけでも横山隆興さんの功績は偉大なものであったということを最後につけ加えさせていただきます。