室生犀星と雨宝院

室生犀星と雨宝院

高野山真言宗雨宝院26世 高山 光延 氏

 室生犀星の本名は照道。父は旧加賀藩士、小畠弥左衛門吉種。生後まもなく雨宝院住職、室生真乗にもらわれ、赤井ハツ(真乗の内妻)に育てられます。
野町小学校に4年間通ったあと長町高等小学校に入り、13歳で中退、金沢地方裁判所へ給仕として勤めます。風骨とう人の指導で俳句に目覚め、裁判所を辞め、20歳で上京。29歳の時、浅川とみ子さんと金沢で挙式。結婚して初めて書いた小説が「幼年時代」です。その後「性に眼覚める頃」「或る少女の死」を相次いで発表します。「性に眼覚める頃」は中央公論に持ち込んだときは「発生時代」という題名でしたが、編集長の滝田樗陰(たきた・ちょいん)が改題したものです。犀星が小説家として名前が売れていったのは滝田のお陰といわれています。
芥川龍之介とも仲がよく、兼六園の三芳庵別荘で歓待しています。
45歳の時「あにいもうと」、66歳で「随筆 女ひと」、67歳で自分の娘を題材にした「杏っ子」を新聞連載。妻とみ子さんは64歳で永眠されます。「我が愛する詩人の伝記」「かげろふの日記遺文」など賞をもらう作品を次々発表しますが、最期は東京の虎の門病院で肺がんのため昭和37年3月26日、73歳で亡くなりました。
三種の神器で言いますと、犀星にとってのそれは女性、庭、焼き物です。第一に女性は、犀星はお母さんが分からないまま生涯を送った方で、若い女性を自分のお母さんと対比しています。当時の作家の中で女性を見る目が一番長けていたのは犀星だと言われています。
第二の庭については、自然を見る目が確かだと思ってもらえるなら、庭を毎日、見て育ったからだろうと「庭」という短文に書いています。第三の陶器は、父の真乗に抹茶茶わんをもらったのがきっかけで、陶器を見る目が育ち、買い集めました。
犀星はお世話になった人へのご恩を忘れない人でした。若い作家が「驢馬(ろば)」という雑誌を創刊するとき東京で印刷すると高くつくので金沢で作れと言って交通費と印刷代を援助しています。犀星を見るとき小説だけでは飲み込めないものがあります。長女の室生朝子さんが私のお寺へ来て「お父さんは私たち家族を非常に大切にしてくれました。お母さんが20年あまり寝込んでいましたが、きちっと介護して見送ってくださった。小さいときは贅沢もさしてもらいました」と話されました。
三つ子の魂百までと言いますが、小さいときの環境が大事であり、若い人たちを育てていく中で、その人その人のいい面を見出していくことが非常に大事でないかという気がします。