学都金沢-四高青春譜

学都金沢-四高青春譜

能登印刷(株)代表取締役 能登 隆市 氏(金沢西RC会員)

 先々週、所用で東大の本部へ伺いましたが、学部生14,000人のうち留学生が300人にも満たず、国際ランキングで長年アジア1位だった東大が、21位の香港大に抜かれ26位となってしまっているそうです。ところで、東大は街中のキャンパスですから、学生が街に溶け込んでいます。金沢にも学生が街に溶け込んでいる風景がふんだんに見られた時代がありました。
私と四高の関係は昭和52年、36歳のときに月刊誌「コミュニティジャーナルいしかわ」を創刊し、連載記事として「四高物語」を企画、コラムで卒業生のインタビューを掲載しました。その中で、金沢市長だった土井登さんに「エリートとして活躍している卒業生は多いが、地元のためにどんな恩返しをしてくれたか?」という質問をして、えらく反論されたことを覚えていますが、そのことが私の検証したいテーマのひとつになりました。
四高は昭和25年閉校になりましたが、昭和56年の95年祭の前年、四高同窓会に四高写真集出版の企画を持ち込み、協力のお願いをしました。全国のOBから千数百枚の写真が寄せられ、青春を切り取ったような七百数十枚を選んで昭和61年、開学100年祭の年に刊行しました。今日はその中から数十枚をご紹介したいと思います。
明治政府は国民皆兵とともに国民皆学を掲げ明治19年、全国に7つの官立高等中学校を設置し明治27年、高等学校に改称しました。最初の写真は建物正面で、右側が四高の門標で左側が医学専門学校の門標です=写真下。(その他の写真についてポイントだけ記します)
★無声堂における柔道の稽古。建物は明治村に移築されている。無声は礼記の「声無きに聴き形なきに視る」に由来。★学生はよく街中を闊歩したりストームをしていた。記念祭には市民も構内に入っていた。★南下軍は明治30年、京都三高との柔道、剣道、野球の対抗戦が最初で、歌は明治40年に学生が作った。★四高は柔道が強く大正3年から全国大会で7連覇している。野球部も昭和5年、横浜高校を破って優勝した。ボート部も六高を破って全国制覇したこともある。
この写真集の刊行に当り忘れられない思い出が2つあります。1つは、真柄要助氏に連れられて東京四高会の錚々たるメンバーに協力のお願いをしたこと、2つ目は井上靖さんの巻頭の辞が欲しいと先生のお宅を訪問したことです。ウイスキーを頂戴し、柔道部の写真を送っていただきました。
なお、四高記念館に展示の写真はすべて当方から提供したものです。機会があったらご覧下さい。

学都金沢-四高青春譜