大拙のことば

大拙のことば

鈴木大拙館 館長 松田 章一 氏

 鈴木大拙は明治3年金沢市本多町で生まれました。大拙が20歳のときお母さんが亡くなり、棺桶に入ったお母さんを見て、肉体は滅びるが精神はどうなるかというのが彼の最初の疑問だったようです。これが彼の宗教への道の始まりでした。
大拙は、京都の大谷大学にて89歳まで正教授を務めました。90歳のときインド政府が国賓として迎えました。96歳で亡くなりました。
今日は、大拙の晩年の言葉をご紹介します。(下線参照)
(1)「自由」とは、自らに在り、自らで考え、自らで行為し、自らで作ることである。そうしてこの「自」は自他などという対象的なものではなく、絶対独立の「自」(「天上天下唯我独尊」の、我であり、独であり、尊である)であることを忘れてはならぬ。これが自分が今まで歩んできて、最後に到達した地点である。
これは大拙77歳のときの言葉です。世界の中でただ私1人が「尊い」と言っています。「尊い」は「偉い」と考えられがちですが、それは相対的な考え方であって、私が「尊い」のです。結局、私は「仏」だと言っているのです。我々は「仏」を向こうに置いて拝んで助けてほしいと思いますが、そうではなく、私が「仏」なのです。
(2)二つのものが対峙する限り、矛盾・闘争・相克・相殺などということはまぬがれない。
これは91歳のときの言葉です。矛盾・闘争は人間の世の常だと言っています。そういうなかで我々は生きている。人間とはそういうものだ、「それはそれとして」否定しない。だけど、もうひとつ絶対独立の「自」というものがあるという訳です。
(2)松は竹にならず、竹は松にならずに、各自にその位に住すること、これを松や竹の自由というのである。
92歳のときの言葉です。政治闘争は自由を獲得しようとしますが、それは相対的自由です。自由でないから自由がほしいと言うのです。私はあなたではない。私は私。竹は松にならないのです。
(4)「自然(じねん)」は「自ら然る」の義で、仏教者の言う「自然法爾」である。他から何の拘束を受けず、自分本具のものをそのままにしておく、あるいはそのままで働く義である。松は松のごとく、竹は竹のごとくで、松と竹と、各自にその法位に住する義である。
これも92歳のときの言葉で、同じようなことを言っています。「自然法爾」の「法」は真理という意味です。自らに然るということが真実のあり方であると言っています。
(5)阿弥陀経「青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光」
青い色には青い光があり、赤い光が黄色で光ろうとしても無理です。私は私、あなたはあなたですから、私は私を光っている。誰もが生まれてから死ぬまで場所を与えられています。座禅の「座」は、座るという意味ではなく、存在の「在」です。自分の「座」をもっていながら、あっちがいい、もっと儲かる話がないかなどと、切ない自分に自分を追い込んでいます。大拙が我々に言っている心ではないかと思います。