古都昔日/写真で見る明治・大正・昭和の金沢 続編

古都昔日/写真で見る明治・大正・昭和の金沢 続編

能登印刷(株) 代表取締役 能登 隆市氏(金沢西RC会員)

 2月18日の例会では、同じ標題にてプロジェクターの紙芝居よろしく金沢の古景をご覧いただいた。100枚ほどの写真を準備したのだが、駄弁を弄し明治で終わってしまった。その続編である。
城下町金沢の人口は明治維新時には12万人、東京、大阪、京都に次いでわが国4番目の大都市であった。その後金沢の人口は減少し明治22年には9万人余となりわが国7番目の都市となる。金沢の人口が増加し始めたのは明治29年からで、第四高等学校がおかれ、やがて師団司令部が設置されて、政治・軍事・教育の地方的中心地になってからであった。明治31年に北陸線が開通し、大正8年には市電が走った。市電敷設工事により、現在につながる金沢という町の骨格ができたのである。
明治以降100年の間に、東京・大阪・名古屋などの人口が増加し大都市化したのに対し、金沢の人口の増加は少なく地方都市にとどまることとなる。

*私の心の原風景
私の小中学生の頃の金沢は戦災を免れたために復興の槌音も響かず、近代化から取り残され眠ったような町であった。
昭和28年、豊富な写真を盛り込んで好評の岩波写真文庫93号として『金沢』が刊行された。歴史的な景観を伝える金沢を「京都に次ぐ古都」と規定して全国に紹介した。金沢は一躍、一周遅れのトップランナーに浮上したのである。
昭和35年から日本の経済は、高度成長の道を走り続ける。この間の金沢もまた急激に変貌した。市街地にビルが林立し、市電が廃止になって幹線道路は車の洪水となった。郊外に住宅地が拡散し、市中の人口は激減し街は空洞化していく。岩波文庫が発掘した「古都金沢」は一変してしまった。
日本全国どの町も画一化して、うさぎ追いしかの里山は放置され、小鮒釣りしかの川もコンクリートで固められた。故郷は唱歌の中にしか残っていない。
裸足で大地を踏みしめ、素足に竹下駄で雪遊びに興じた時代は、思えば遠い昔のことである。職住が隣接し、人間が街路の主人公であった時代の金沢は、少年の頃のひかりと風とにおいとともに、私の心の原風景として大切に記憶に残し、次代へ伝えていきたい。

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河北潟沿岸の川舟
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金沢駅と駅前広場
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並木町入口
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浅野川の友禅流し
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金沢市内を走るSL列車
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市役所前を行く電車