北前船とおかえり祭り

北前船とおかえり祭り

白山市観光ボランティアガイド「美川おかえりの会」会長 西川 義正 氏

 美川の「おかえり祭り」は5月の第三土日に行われ、滋賀坂本日吉大社の末社、藤塚神社の例大祭として700 ~ 800年前に起こったといわれていますが、今の様な祭礼になったのは約250年前で、北前船発展と共に盛んになりました。
加賀藩三代藩主前田利常が蝦夷から西回り航路下関経由の物資輸送ルートを開発しました。鎌倉時代に成立した日本最古の海洋法規集である「廻船式目」に「三津七湊」として十大港湾が記されていますが、「三津」は伊勢安濃津(津市)・筑前博多津(博多市)・和泉堺津(堺市)、「七湊」は越前三国湊(坂井市)・加賀本吉湊(白山市)・能登輪島湊(輪島市)・越中岩瀬湊(富山市)・越後今町湊(直江津市)・出羽土崎湊(秋田市)・津軽十三湊(五所川原市)で、当時の表日本は日本海側と考えられます。そのような状況の下、最初は物資の輸送だけでしたが、商品を寄港先で売買しながら運行するようになり、利益は一航海千両(4億円)と言われるほどになりました。
北前とは、1.北を前にする、2.北国松前の略語、3.「北廻り」「北米」の転化等の説がありますが、文化文政の頃の「三か国長者鏡」に、東の大関は宮越(金石)の銭屋、西の大関は本吉(美川)の紺屋三郎兵衛「加賀の本吉銀の出所」といわれるくらい加賀藩の経済を支えました。
これに伴い祭りも派手になり、神輿も紺屋三郎兵衛が作らせた八面四扉で美川仏壇の技術の粋が結集された豪華なものですし、13 基の台車(だいぐるま)も蒔絵、漆絵を描き意匠を凝らしたものです。祭りの狙いは、年に一度船乗りの家族、客等を呼んで豪勢な宴会を催すことと、当時は飢饉もあり庶民は貧しかったので、酒食を振舞い暴動等を防ぐ意味もあったと思います。
初日の神幸祭(本祭り)は、早朝、裏鬼門の藤塚神社を出発して表鬼門の高浜御旅所まで行きますが、祭列は美川ラッパに先導された台車を先頭に、大獅子・小獅子が御輿の前で舞い、右大臣・左大臣・猿子が随身として神輿の道中にお供します。二日目の還幸祭(裏祭り)は、夜半、御旅所より「おかえり筋」の男衆にかつがれ、「おかえり筋」を通り、翌朝未明にかけて本殿へお還りになります。10年に一度巡ってくる「おかえり筋」では神様をお迎えして夜を徹して豪勢な酒宴が催され、本祭り以上の振舞いを呈します。朝6時頃客は帰りますが、そこからおかえり祭りとなりました。
美川は、明治4年に合併した能美郡湊村と石川郡本吉町から名付けられ、初めて県庁が置かれたところです。ぜひ美川にお越しください。