創立50周年を迎えるにあたり、金沢西RCのあゆみ

創立50周年を迎えるにあたり、金沢西RCのあゆみ

(株)ザ・ハンドレッドゴルフ 代表取締役会長 田川 一明 氏(金沢西RC会員)

 私たちの親クラブは金沢東クラブです。1964年の8月7日に創立総会を行っています。最近の百万石クラブなどをみていますと、創立総会を行ってもすぐにRIの承認が来ているようですが、私たちの場合は創立総会を行って1年後になる1965年4月7日の承認でした。チャーターナイトはさらに1年後の1966年4月7日となっています。
チャーターメンバーは、昔は尊敬されていたものです。かつて台湾に行ったときでも、お二人のチャーターメンバーがおられて、90歳代の方たちでしたが、非常に尊敬を受けていました。残念ながら、当クラブのチャーターメンバーはすでにお亡くなりになっています。
調べましたら、昨年の段階で300名の方々が当クラブの会員の席を置かれたことになっています。いま現在では50名の在籍です。
会員が新入の挨拶をされる時には、「伝統ある西クラブ」「歴史のある西クラブ」という表現をされることが多いと思います。ガバナーの挨拶でも同様のことをおっしゃることが多いように思います。
実績のあるクラブとは、ということについて私見を言いますと、「一、ガバナーを選出しているか」「二、地区大会のホストをしているか」「三、新クラブの創設をしているか」の3点あると思います。当クラブからは2名のガバナーを輩出しています。地区大会もホストを行っていますし、新クラブも創設しています。
ガバナーを出しますと、地区協議会をしなければなりません。ですから当クラブは2回やっています。地区大会はガバナー主催ですが、どこかのクラブにお願いします。以前、金沢の引き受けてがなく、七尾にお願いしたことがありました。晩餐は加賀屋でやったことを覚えています。
地区大会を行ったときは、当時のガバナーであった金沢クラブの石黒傅六さんから依頼があり、快く引き受けました。当時の地区大会は三重、岐阜、石川、富山の4県だった時代です。その次の年度で別れて、我々は2610地区になりました。最後の4県での地区大会だったので、それは盛大な地区大会になりました。メインのプログラムは、当時できたばかりの厚生年金会館で行いました。その後、晩餐会は、野田山の実践倫理会館を貸し切りました。
新クラブの創設は2クラブしています。松任クラブ(現:白山クラブ)は、当クラブが誕生して間もなく創られました。松任クラブについては、会長が一人だけ移り、自分たちで組織を創っていかれました。
2つ目は、みなとクラブです。私の28代の会長時代に話を受け、その次の前田さんの会長時代に創立総会を迎えました。この件については、理事会で何回もNOされました。金沢に100名を超えるクラブが他にあり、多くのクラブがあるのに、何故うちがやるのかということでした。しかし、当時の日成ビルドの盛岡さんに背中を押され、やることになりました。
みなとクラブ創設にあたって、13人も移ることになり、これがいまでも影響の尾を引いているようにも感じます。みなとクラブでプロパーの会長が出たのはずっと後で、最初は当クラブから移られたメンバーが順番に会長になっていたことを思い出します。