前田家の職制について

前田家の職制について

(株)ディカルAZ代表取締役、加賀藩歴史・文化護持協力会会長、
「加賀八家」横山家16代当主 横山 隆昭氏

 加賀藩という言葉が使われたのは明治に入って廃藩置県までの2年間だけでした。当初は加賀藩でなく金沢藩でした。江戸時代は前田家という認識でした。120万石、後に大聖寺藩、富山藩に分けましたが、明治まで外様でありながら102万石を持ちこたえました。
前田家の組織は八家(はっか)が中心に動きました。藩主以下、7つの身分を柱とした縦割り組織です。藩主、ついで人持組頭(八家)―人持組(60家)―平士―与力―御歩―足軽と続きます。
藩のすべてのことを決めるのが御用部屋です。年寄衆、若年寄、家老の3人がおります。年寄衆は最高の権力者で、月番という形で八家が交代して勤めました。これにより、藩組織の肥大化を防ぐ一方で、力の分散を図り、強固で長期かつ安定的な藩政を可能にしたのです。
行政組織として、産物方御用主附(ごようぬしづけ)、いまの経済産業省です。財政総務関係の勝手方御用主附、お世継ぎをつくる世子御用主附、文部科学省の学校方御用主附、上級裁判所の公事場奉行、奏者番は宮内庁式武職の仕事。定火消しは消防組織。火事が一番怖い。それで守られてきた金沢城の二の丸は、明治14年に陸軍が入り、たばこ火の不始末か不審火で焼けてしまった。日本一の二の丸だったのに残念です。そして大事な石高を決める御算用場奉行、寺社奉行で固められていました。
八家の一つ、村井家の先代ご当主はいまの陛下がご幼少のころ東宮付きで、昭和20年の敗戦にいたる日本の状況を全部ご説明になった。初代は、2代藩主前田利長に対する徳川家康の嫌疑を解くために人質となって江戸へ下向した芳春院(利家夫人まつ)に随従し、江戸で没しました。金沢に遺体を持ち帰り、唯一、野田山の前田家の墓所で、素晴らしい五輪のお墓に鎧兜を着け江戸城をにらんだ立ち姿で納まっていることになっております。その子孫とも付き合っています。
加賀藩では直臣として上士、中士、下士といった前田家に直接雇われている人たちが5,000人いました。八家は陪臣です。前田家は幕府の職に就いたことがないので、陪臣であったということです。
横山家の家中には明治元年に580人がいました。禄高は多いときで3万2500石、平均では3万石です。四公六民なので、家中には40%入り1万2000石。今のお金で7億円くらいになります。
最後に全国で類のない家中町は横山家、長家、本多家が形成していました。横山町の場合は、金沢城下で横山家の家臣が住み、仕切りをして門番もいる。一つのお城のようなものでした。かつては徳田秋声の家などもあり、ひもとくと面白いものがたくさんあります。