八重の桜と加賀藩の縁

八重の桜と加賀藩の縁

(財)北國総合研究所 事務局長 福田 信一 氏

 NHK大河ドラマ「八重の桜」のヒロインである八重が生きたのは幕末の大変な動乱の時代でした。薩長出身者で編成された新政府軍により会津若松に対する苛烈な攻撃がなされ、会津若松城(鶴ヶ城)に籠城しますが、その白亜の名城は無残にも陥落します。そして、藩主松平容保は降伏しました。そのおり、会津白虎隊が集団自決を果たしたという悲劇はあまりにも有名です。その会津若松城(鶴ヶ城)に籠城して、最後までスペンサー銃で新政府軍と果敢に戦ったのが会津藩の砲術指南役の家に生まれた八重でありました。
その八重が示した「会津魂」と加賀藩はとても深い関係にあります。加賀藩の5代藩主前田綱紀に嫁いだのが会津藩の藩主保科正之の娘摩須姫です。摩須姫は18歳にして病死してしまいますが、保科正之はその後も前田綱紀の後見役として帝王学を手ほどきします。天下の名君と言われた保科正之がこれまた名君と言われた前田綱紀を育てたのです。
会津藩には「御家訓」というものがあります。その第1条は「徳川将軍家に忠勤を励み続けよ」というものです。これが八重の示した「会津魂」の根源というべき「義」の精神です。それがずっと藩政時代に会津で守られ、松平容保の世になって将軍の命を受けて京都守護職として葵の御紋を守るという「義」の美学として結晶したわけです。
八重の「会津魂」は明治になっても生き続けます。アメリカから帰国した新島襄との出会いです。八重は新島襄と二人三脚でキリスト教主義の私学「同志社」の創立に尽力し、新島襄が亡くなった後も献身的な働きを重ねました。八重の「義」を貫く生き方はまさしく「ハンサムウーマン」と言われた所以であります。新島襄は「彼女は決してハンサムではありません。しかし、美しく振る舞う女性であり、これがまさしくハンサムウーマンであります。」と言いました。その美しさの根源には「会津魂」があったのではないかと思います。
400年前から金沢と会津は近い間柄にあります。5代藩主綱紀と摩須姫のあとも、加賀藩と会津藩の姻戚関係は続きました。八重や会津があれだけの逆境に立ち向った背景には、保科正之以来の幕府に忠義を貫き、加賀藩とも義理と人情の姻戚関係を強く結んできたという「会津魂」があったことは間違いないと思います。