井上靖と金沢

井上靖と金沢

金沢大学国文学会常任理事、石川県文芸協会常任理事 森井 道男氏

 「四高生 井上靖、成績いまいち」というのは朝日新聞に載った記事です。金沢大学が、四高開学120周年の記念展を開催するために資料を整理していたところ、書類金庫から井上靖氏の成績表を発見したということで、全国的にも話題になりました。
総合成績は1、2年とも「中の下」で、語学と理科系の授業に集中する3年に限っては、及第者103人中97番というお粗末な成績でした。文豪といえども、学校の成績はたいしたことなかったということになります。
井上靖氏は静岡県の旧制沼津中を卒業して、1927(昭和2)年に四高理科甲類に入学、3年間を金沢で過ごすことになりました。しかし、勉強はあまりしないで、柔道ばかりやっていました。当時、高等学校柔道の全国大会は、今の甲子園と同じように大変な人気でした。その中でも彼はスター選手でしたので、柔道漬けの生活を考えればこの成績は当然なのでしょう。
北國新聞に私が協力した記事にも書いておりますが、井上靖氏の研究者・愛好者でつくる「井上靖研究会」というものがあります。研究発表会や総会は、四校があった赤煉瓦の石川近代文学館で開かれたこともあります。井上靖氏には、この四高時代に取材した小説もあるし、エッセイも多数ある。戦死した柔道部の先輩への鎮魂の思いをつづった「雪の原野」や、哲学をやっている友人に教えられたカントの言葉が終生忘れられなくなる「天上の星の輝き」などもそうです。
井上靖文学は歴史小説のほかに私小説的な系列もあるし、叙事詩として見るべき雄大さもあり、非常に裾野が広いものです。その中で奥深くに流れているのは、四高時代の金沢での3年間の思い出なのだと考えています。一番晩年の作品である「孔子」などでもそうですし、お茶の歴史を書いた小説「本覚坊遺文」でも感じるところです。
以前に東京のご自宅へお邪魔したことがありますが、彼は、金沢はお茶どころであるから、かつて「本覚坊遺文」を書くために集めたお茶に関する資料を金沢の近代文学館へ寄贈したい、と話しておられました。方々にこのことを話しているのですが、まだ実現していません。これを私の最後の仕事としたいと思っています。
井上靖氏は、この都ホテルで講演されたこともありましたが、演壇に向かっていくその姿はまさにこれから柔道の試合に行くというような歩き方でした。その気迫みたいなものを私は決して忘れることができません。ですから、文豪、小説家というよりも武芸者だという感じがするのです。私が「井上靖と金沢」ということをお話しするとしたら、やはりこの柔道というのは切り離せないことなのです。