チェロと私

チェロと私

オーケストラ・アンサンブル金沢チェロ奏者 大澤 明氏

1960年に富山で生まれた。父親がバイオリンの教師だったので、最初はバイオリンをやったけど、親に習うのは苦痛で、この楽器はだめだと直感した。本当は国鉄の車掌かプロレスラーか野球の選手になりたかった(笑)。
家に出入りする音楽家の中でチェロを演奏する大人はニコニコして楽そうな感じだったので、9歳のとき転向した。
イタリア留学を夢見て京都の大学に入った。イタリアに行くことになったのは、大学を卒業して2年目の24歳のとき。試験を受けて帰った後、カナダで講習会に行った。そのとき、ニューヨークの先生があまりにもすごかった。1ドル240円の時代で、先生に手紙を書いて「奨学金を受けないと厳しい」とお願いしたら、先生は学校から500ドルの奨学金をとってくれ、ポケットマネーから300ドルの小切手も出してくれた。9年間続けて夏に行った。
イタリアの先生も素晴らしいが、イタリア留学をやめてアメリカの先生に就こうと思ったが、「絶対に帰るな。2年間を全うしてこい」と言われた。自分は、絶対帰った方がいいと思い、友達に頼んだら格安航空券を取ってくれ、帰ってきた。先生も親も怒った怒った。でも僕は良かったと思っている。
チェリストの悩みは運搬。一番困るのは飛行機。貨物室に預けるとタダだけど、投げられたら一巻の終わり。怖いのでチケットをもう一人分買う。国内便は半額ですむ。米国路線は人間と同じ値段。最悪はヨーロッパ路線。正規運賃の75%を払えという。一度、チェロのために28万円払ったことがある。その代わり、恩典もある。機内食が2人前食べられる(爆笑)。「鶏ですか、牛肉ですか、魚ですか」と聞かれたときに、僕が「彼(チェロ)もお腹がすいてるんでビーフやってくれますか」と言うと、固まる人と笑って持ってくる人がいる。でも、たいがい食べられる。だからこういうお腹になった(笑)。
33歳の1993年に神戸の小さいグループに入ったが、そこをやめることになって、オーケストラ・アンサンブル金沢チェロ・セクションのルドヴィート・カンタという上司から「絶対金沢に来い」と言われた。試験まであと1週間しかない。申し込みの期限も切れていた。岩城宏之音楽監督(故人)からも是非と言われ、運良く通った。その年の10月に父親が癌だと分かって、亡くなるまでの3年半富山にすぐ通えたのも運命の赤い糸のお陰と思う。
ニューヨークの先生も2007年に96歳で亡くなるまで習うことができた。
※ この後、J. S. バッハの「無伴奏チェロ組曲第1番前奏曲」やサン=サーンスの「白鳥」などを演奏していただき、会員一同感銘を受けました。